四日市萬古解説


萬古焼は元文年間(1736-1741)、桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん・1718-1777)がはじめた焼物で、沼波家の屋号「萬古屋」から作品に「萬古」「萬古不易」の印を押したことからその名が付いたといわれています。弄山の作品は評判となり、後年需要の高かった江戸に移住して江戸萬古を開窯し、多数の陶工とともに作陶をおこなったといわれています。しかし、弄山没後はしだいに衰退し、消滅してしまいました。弄山の時代の萬古焼は「古萬古」といわれています。  天保3年(1832)、森有節(もりゆうせつ・1807-1882)は弟の千秋とともに萬古焼の再興をはかり、小向(三重郡朝日町)に窯を築きました。当初は古萬古風の作品の再現をしていたようですが、新しい陶法の開発に努め、特に木型による急須は、有節独自のものでその技法は今に伝えられています。このころの萬古焼を「有節萬古」とよんでいます。  有節萬古は桑名に広まり、また幕末から明治にかけては作陶の中心が四日市に移り、各地の陶工たちとの交流が広範囲に行われ各地の伝統的な技法と有節萬古などの技法が合わさり四日市萬古となっていったようです。



トップページに戻ります。